2015年9月

◎   「任侠」

「清水次郎長」


「我々はヤクザではあるが暴力団ではない。暴力団は自民党の皆さんです」

(のっけから不穏な言葉?)
二十年以上前のことになるが、時の自民党政権が暴力団の締め付けを
強化する「暴力団対策法」なるものを施行した際、ある暴力団の幹部が
テレビ局の覆面インタビューに応じた。
記者から「暴力団対策法の施行をどう思いますか?」と聞かれたのに対して
その幹部の方は「これは我々に対する暴力です」と応じた後に
上記の様にコメントした。
記者は一瞬沈黙したが、テレビを見ていた人も同じだったかも知れない。
幹部の方の真意はともかくとして、普通に受け取ればかなり予想外なコメント。
しかしある意味では「言い得て妙」でもあるが故にブラックユーモアの様にも
聞こえる。
インタビューした記者もどういう言葉を返せば良いのか迷ったのではなかろうか。

「自己犠牲の精神で命も惜しまず弱きを助け強きを挫く」という”任侠道”、
それは社会がまだ不穏だった頃の古い時代の中国に起こった考え方で、
当時の社会状況に対応して生まれた優れた実践的精神であった。
任侠とは仁義を重んじ、圧政や無法に苦しむ弱者をその悪しき社会体制から
守ろうとする「正義の味方」的な精神であり、任侠を尊ぶ者は賊、義賊によらず
価値が有るとされたのだという。

その様な任侠道を標榜する一群の人達が日本の社会に現れたのは、
江戸時代初期の関東がその発端らしい。
戦国時代の社会的な混乱によって失業した関東八州の武士達が土着して
平民化したのがその始まりとのこと。
当時はその様な人達のことを「侠客」あるいは「伊達男」などと呼んだ。
彼らは権力の横暴に盾つく反骨者としての精神的風土を持ち、
また仁義を重んじる気風と弱者に味方する正義感をも併せ持っていた。
それ故、支配階級の理不尽な横暴さに苦しめられていた当時の民衆にとって、
彼らの存在は何かと心強いものであったらしい。
もちろんであるが彼らは任侠道そのものを生業としていたのではなく、
それぞれが何らかの正業に就いた上で任侠道を標榜していたのである。

しかし江戸時代も後期になると彼らの反骨精神も次第に軟化して行く。
当時は非合法の賭博が庶民のあいだで密かな娯楽となりつつあったのだが、
侠客たちはいつの間にかその賭博を自分たちの生業とするようになり、
元々の正業からは次第に離れて行った。
また、それと共に縄張り争い等の暴力沙汰が彼らのあいだで頻発するようになり、
世間の呼称も「ヤクザ」、「長脇差」、「渡世人」などに変化して行った。
正業を持たない彼らは云わば無職の遊民であり、その上彼らの仲間は
荒くれ者が多かったので庶民の世界とは自ずと一線を画してはいた。
しかしながらその頃にはまだ「仁義を重んじ、弱きを助け強きを挫く」任侠の
気風が彼らの間には根強く生きていて、その意味で民衆の支持を得ていた。
国定忠治や清水次郎長などの大親分は庶民には大いに人気が有ったのだという。

現代社会にも任侠道に生きることを建前とする少数派の人達がいるが、
歴史的に見れば彼らは上記の様な流れを汲んでいる訳である。
しかし完成された法治国家である現代社会には任侠が庶民の支持を得る
社会的背景は既に希薄であり、彼らは社会的には異端者の立場である。
また、任侠を標榜するとは言うものの、彼らが現実にやっていることは
弱者を助けようとする本来の任侠精神からはかけ離れているように見える。
江戸時代の任侠者は云わば「正義の味方」として民衆から支持されたが、
現代の任侠者に対する世間の見方はむしろその逆になっている。
一方、現代社会には彼らとはまた別種の単なる犯罪集団も暗躍しているが、
それらの人達は元々金だけが目的であって、任侠の思想とは無縁である。

ところで「百姓は生かさず殺さず」と言ったのは江戸時代の徳川家康である。
権力者としての家康は民衆が豊かで自由になることを望んでいた訳ではない。
逆に、衣食の足りた民衆が自由の気風を得て、権力体制に反発を企てることを
恐れていたのである。
それ故、家康は「生かさず殺さず」で民衆を支配する政治を選択した。
しかしそれはなにも過去のことではない。
現代では独裁者が民衆を支配する国は稀だが、独裁者に代わって国家自体が
民衆を支配するようになったのが現代だとも言える。
法律と警察力という二つの強権を行使して民衆の自由を大枠で規制し支配する
のが 現代の法治国家であると言っても良い。
もっとも、国家が人々の自由を規制しようとするのは、それをしないと
組織としてまとまらないからである。
動物の世界では個々が本能のまま自由に行動しても全体の調和は維持されるが、
人間の世界では個々人の自由勝手な行動を容認すると調和が乱れるのである。
国家が法律や警察力を整備して国民の行動を規制するのはある意味で不幸な
ことに違いないが、それもまた止むを得ない。
そうならざるを得ない原因は人間自身に在る。

上記の如く国家は一面において国民の自由を規制する機構であるが、
良し悪しは別としてその様な規制に縛られずに自己の望むままに生きようとする人
がもしいたとしたら、その様な人にとって「国家」はまことに手強い相手である。
なぜなら国家はその様な人達の行き過ぎた行動を「反社会的」と見做し、
強権を行使してその行動を強引に阻止するからである。
そういう観点からすれば、冒頭の幹部の方の「暴力団は自民党の皆さんです」は
一理あることになる。

ところで自然界の動物世界には暴力も強権も存在しない。
それらは共に人間の世界にのみ有る。
それ故、自然界の動物から見れば「暴力」のみならず「強権の行使」もまた
同じ様な暴力行為に映るかも知れない。
人間の世界では”暴力団”とはヤクザのことかも知れないが、人間以外の動物から
見れば”暴力団”とはヤクザのことである以前に我々人間のことかも知れない。








(画像は清水次郎長・・・晩年は子供にも好かれる温和な好々爺だった)


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