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◎ 清水精一師の略歴及び思想の概要



明治21年大阪生まれの清水精一師は生涯を通して「道」を求めた人であった。
少年時代に「生の疑惑」を持ったことがきっかけで、求道的な人生を歩むこととなった。

苦悩の少年期を経て大学に学んだ後、実業界に入ったがあまりの矛盾に生き切れず。
その後禅の修業をし、また、比叡山に聖者を訪ねしも満たされず。
遂には深山に独居して道を求むるの止む無きに至った。

山を降りて後は惹かれるままに貧民窟に入ったが、遂には不思議な運命に導かれて乞食の
群れに入り、乞食の人たちと共に行乞する生活へと入って行った。
しかし行乞の供養に生きる資格無き自分を自覚して後は平凡人として働く生活を目指し、
乞食の人達を率いて労働する生活へと転向した。

労働の生活は市井の真っ只中からやがて農へと移行することとなった。
そして大地に生きる百姓に至って初めて、「生命の座」を味わうことが出来るようになった。

戦前戦後の混乱期において師は心ある人々に良く知られ、慕われた存在であったようだ。
しかしながら戦後も経済成長の時代になるに連れて人々の精神的な枯渇感も薄れて行き、
それと共に清水師も次第に世間から忘れられて行った。

それから更に半世紀近い年月を経た現代は、「文明の行き詰まり」とも言われる時代である。
現代社会には戦前戦後とは違った意味で精神の荒廃が増して来ていると思われる。
清水師の歩んだ真摯な道は、現代に生きる我々への示唆に富んでいるのである。







1888(明治21)

   大阪市三島郡(大阪府高槻市)に地主の子として生まれる。

1901(明治34)  13歳

   中学生であった13歳の暮れに、初めて人生に対する疑問を持った。

   それまでは父母の愛情によって順調に育てられて来た清水師であったが、年の暮れになって
   地主であった父が小作争議に遭遇。
   隣り村の地主2人が小作人に殺された。
   父は小作人の襲撃を避けるために逃げて姿をくらました。
   母は不安に懊悩し、家は小作人達の怨嗟と非難の声に包まれていた。
   多感な清水少年が初めて触れた人生の実相は、あまりにも苛烈なむき出しの面相であった。

   昨日まであんなに親しくして朝夕笑顔で応接し合っていた村の小作人たちの一変した非難の
   態度に、清水少年の心はひどく傷つけられた。
   長男である清水少年は家の跡継ぎとしての立場であったが、逃走している父の姿は他人事
   ではなく、そのまま自分のこととして受け取らざるを得なかった。
   限りない動揺の淵に投げ込まれると同時に、人生に対して少年らしくもない懐疑を抱くに至った。

     人は皆自分の命をより良く生かそうとしてこの世に生まれて来ているはずだ・・・。
     近縁の人同士がなぜ非難し合い、命までも危うくして苦しまねばならないのか?
     人が自分を生かそうとする時、他人をも踏み躙って行かねばならないのはなぜなのか?
     自分を生かすには相手を蹂躙するしかないのか?
     自分を生かすためには逃げることもまた止むを得ないのか?
     蹂躙もせず、逃げもしないでもっと真に自分を生かして行ける道は他に無いのか・・・?
     平和で楽しく調和して生きて行くにはどうすれば良いのか?
     それとも血みどろになって闘わねば生きて行けないのが人間社会の悲しい現実なのか?

1902(明治35)  14歳

   村のお寺に祖師の報恩講が有り、御講師に「捨身道」について質問するも得るところが無かった。

   学校の修身の先生に「生きる道」について質問。また「人間は犬や猫よりどこが偉いのか」と質問。
   先生は経書のお言葉を夜を徹してお話しして下さったが、良く理解できなかった。
   絶対絶命の思いに駆られた清水師は、「先生が私の立場ならどうなさいますか、逃げますか、
   闘いますか、それとも捨身道を行きますか。その具体的な道が知りたいのです」と質問せざるを
   得なかった。

   「生きる道」の模索から抜け出すことが出来ないまま、その後学校は休み、勉強も止めてしまった。
     これからの自分はただ一筋に「道」を求めてみよう。
     しかしその道とは一体どのようなものか・・・。
   道を求めつつもどうして良いのか分からず、死の淵を覗くような鬱陶しい日々が続いた。
   道を求めてそれが得られぬ苦しみは、死を求めて死ぬことさえ出来ぬ苦しみと同じであった。

1906(明治39)頃  18歳頃

   創立間もない京都帝国大学に入学。

   自分が迷いから抜け出せないのは知識が不足しているせいであろう、疑問の解決にはやはり
   知識を求める以外にないのではないかと考え、知識を獲得するために大学に進んだ。
   人類の生命が正しく生かされるためにはまず経済の根本の解明が不可欠であると考えて
   経済学部に入学。マルクス経済学者河上肇に学ぶ。
   しかし知識の道はそれが深くなればなる程、迷いもまた深くなった。
   「いかに生きるべきか」の根本問題はいよいよ深刻さを増すばかりであった。

1910(明治43)頃  22歳頃

   経済学のみではものの判断がはっきりしないと考えて哲学科に再入学。京都学派の創始者
   西田幾多郎に学ぶ。しかしながら満足は得られず、益々分からなくなった。
   「知識の世界は無明の迷いの世界であり、智慧の世界に入らなければ光明の安心は無い」、
   というのが仏教の教えであるが、当時はまだそういうことは分からなかったため大いに煩悶した。

   次第にデカダン生活へと流れて行った。
   酒を飲んで誤魔化す逃避の日々が続いた。
   酒に浸っていなければ生きて行けないほどの苦しさが半年程続いた。
   後日清水師は「何回か自殺も企てた」と回想しておられるが、それはこの頃のことであろうか。

   大学には都合6年間学んだ。

1912(大正元年)頃  24歳頃

   心配した父の命令で実業界に入ることになり、事業会社を創立してその代表者となった。
   酒によって誤魔化していた悩みから、仕事によって救われようと期待した。
   清水師は会社を発足するに当り、「経済機関は人類の共存共栄上いかに運営するのが正しい
   のか」を熟考し、それを元にして事業を企画立案した。
   だが、その立案に対し他の重役達は「それは狂人の戯言だ。その通りに実行すれば会社は少しも
   儲からないではないか」と一蹴し、一人の共鳴者も得られなかった。
   清水師は自説の正しきことを信じて会社を運営して行った。
   しかしながら必然にして出資者からの排斥を受けてしまった。

   職を捨てれば経済的に生きられず、このまま職に立たんとすれば生きる屍に過ぎない。
   13歳の時に持った「人間はいかに生きるべきか」の問題は依然として去らないのであった。
   この問題に直面した時、身に付けたはずの学問も知識もほとんど無力に等しかった。
   求めるべきものは学問や知識よりも更に奥に有るものではなかろうかと考えざるを得なかった。

1912(大正元年)頃  24歳頃

   「明治の傑僧」と称せられた大徳釈宗演禅師が大阪に来たので意を決して禅師を訪ねた。

     「人間が真実に生きることの出来る道とはどのようなものか、それを聴かせて下さい」
     「お前は道の話しを聴きたいという。それは殊勝なことだが、道に入っていない者が道の説明を
     いかに聴いてもそれは分からない。飯を食わない者に飯の味をいかに説明しても無駄であるのと
     同じことだ。道を聴聞するには全生命で聴かねばならない。耳で聴くのではなくて全身で聴く
     のである。わしはお前に修行を勧める。篤と熟考しなさい」
   翌日再度禅師を訪ねた。
     「どうじゃ、禅の修業をやる気か」
   禅師の機鋒の鋭さには驚いた。骨身を刺すの概があった。
     「貴方の仰せられる禅の修業をすれば人間の真実道が本当に明らかになりますか」
   すると禅師は大喝一声、
     「飯を食って腹の膨れた者がこの飯を食え、そうすれば腹が膨れると言うに、まだそれを
      信じて食うことの出来ぬ奴はそれは本当は腹が減っておらぬからだ。 お前はもっと
      もっと腹を減らせて食わずにおれぬまでに苦しんで来い。道を求めるには命懸けで
      なければならぬ。そんな生ぬるいことではとても自分を生かすことは出来ない。
      しっかりと練ってみるが良い。お前に話すことはこれで終わりだ」
   何とひどい挨拶であろう。道の善智識は何れも妥協を微塵も許さない。
   しかし、禅師の言葉は清水師にとってまさに「死者をも生かす底の慈悲の痛棒」であった。
   次第に禅師が慕われてならなくなった。
   後日再び禅師を訪ねて垂示を求めた。
   「腹の世界」の威力は「頭脳の世界」とは比較にならないものであることを知らされた。

   この禅師との出会いが契機となって、「禅の修業によって活路を見出そう」と決意した。

1912(大正元年)頃  24歳頃

   臨済宗の大本山京都天龍寺において、座禅を中心とした禅の修行に入る。
   寺男を半年、そのあと専門道場で3年修業、合計3年半を天龍寺で過ごした。

   初めて触れた僧堂の生活、それは総てにおいて無駄の無い生活であった。
   そこには寂びと枯淡の床しさが有り、峻厳さの中に得も言われぬ温か味と悠々たる広さが有った。
   しかしながら禅の修行は厳しい。道元禅師は「座禅は安楽の法門なり」と言っておられるが、
   安楽どころか最も苦痛にしか思えなかった。
   消灯は夜分10時であるが、雲水たちは皆12時過ぎまでは夜座に出る。そして起床は
   午前3時である。煎餅布団の上に横になる時間はわずか3時間に過ぎない。

   自分に与えられた公案は「父母未生以前汝が本来の面目」であった。
   「汝自身を知れ」とは大哲ソクラテスも言った。全ての認識はまず自己の認識から始まるのである。

   修行中の一時期清水師は比叡山に観順阿闇梨を訪ねて二ヶ月程の回峰行を修している。
   観順阿闇梨は一夜に10里余りにも及ぶ比叡山の回峰行を丸10年間修し終えた大徳で、
   今は深く内なるものに徹せんとして一室に籠もり、ひたすら礼拝三昧行を続けていた。
   阿闇梨は越後の人と伝えられる。40歳頃までは一介の漁師であった。
   ある日村の漁師数十人と共に漁に出たのであったが、突然の暴風雨に船は破れ波にのまれた。
   幸いにも阿闇梨は岸に打ち上げられて蘇生。しかし仲間は一人残らず死んでしまった。
   深い無常観に打たれた阿闇梨は、自分が人天の大導師となって仲間を成仏させようと決意。
   妻子にも告げず突然姿をくらまして一路比叡山に登られ、以後ひたぶるに仏道を行じられた。
   晩年の老師は徳行円熟し、ただ老師の顔を見ただけで悩める者は救われ、病人も回復したと
   伝えられている。

   悟り切れば「本来無一物」に相違ないが、そこに到達するには血の涙を絞らねばならない。
   登れば登るほど、峰の高きを仰ぐ自分であった。
   欲望の統制、それが自由の世界へ飛躍する唯一の方法である。しかしそれは容易ではない。
   この頃の師は睡眠も横にならずに座睡で済ませるほど真剣に座禅を修業した。

   天龍寺専門道場での生活は生涯忘れられない有り難いものであった。
   しかしながら大いなる調和を求めれば求めるほど、矛盾はいよいよ深まるのであった。
   性欲と食欲の問題には深刻な自己矛盾を感ぜざるを得なかった。
   命がけになって精進する以外に道は無いと知りつつ、容易に自分の公案は解けなかった。
   やがて天龍寺での修行にも行き詰まりを感じた師はついにそこを出ることを決意 。
   「煩悩を断ち切れない自分はもやは人間社会を離れるしかない」との切羽詰まった思いであった。

   比叡山の無動寺谷に観順阿闇梨を再訪し、山に籠もりたい旨を相談。
   阿闇梨はしばし沈思の後、「お前は既に天龍寺において正師の指導を受け、今その公案を
   練っている。その一道を貫くべし。山に籠もるも良かろう」と言い、「老翁の親切じゃ」とて鎌、斧、
   鋸他の品物を贈られた。

1915(大正 4)頃   27歳頃

   深山に独居

   阿闇梨の元を辞してそのまま誰にも告げずに深山に入って独居独座の生活を開始。
   「生き得なければ死もまた止むを得ない」との覚悟で、着の身着のままの入山であった。
   2年近く山の生活を続けたが、その間一人の人間にも出会うことはなかった。

   入った所は丹波、若狭、山城の三州が連なる自然の懐深い山奥であった。
   そこに自然美豊かな一つの平を見付けて三畳程の掘っ立て小屋を建てて独居。
   松葉を主食に山菜と山の果実を食し、谷川の水を飲んで座禅をしながら生活。

   山の独居生活で数ヶ月を経たある日の朝、清水師は自身が「生命の母体である宇宙の愛に
   触れた」と表現するある体験をした。
   座禅しながらも余りの寂寥感に耐え切れぬような孤独を感じていたその時、近くの松の木が
   自分に語り掛けてくる声を聞いたのである。
     「お前は自分一人だと寂しがっているが、いつも私と一緒に生きているではないか。
     この山一杯に生きている松も杉もお前がここに来て以来ずっと毎日一緒ではないか。
     なぜお前は自分一人だと寂しがっているのか。自分の世界に閉じこもっているから、
     皆と一緒に生きている自由の世界が解らないのだ」
   この声を聞いて清水師は、未だ嘗て経験し得なかった生命の歓喜と躍動を感じた。
   眼前に展開する森羅万象の一切はまことに朗らかで活き活きとして見えた。
   かつて生命と生命の闘争、その一面観より一歩も出られなかった自分にとっては、全てが
   矛盾であり全てが苦悩であった。
   今、自分は地上の全ての生命の母体である「宇宙の愛」に触れたのだと思った。
   この光明に満ちている宇宙、生命の躍如たる世界、これが自分の生まれながらの世界で
   あったのだ。

   この清水師の体験はかの釈尊の体験と酷似している。
   釈尊は菩提樹下において明けの明星を見て豁然として大悟せられたと言われているが、
   その時に釈尊の見た世界がまさに清水師がこの時に見た世界と同じであると思われる。
   釈尊は、「奇なるかな、奇なるかな、全ての生命が微笑んでいる。山川草木国土悉皆
   成仏している」と叫んだと言われているのである。
   釈尊の見た世界は自他一如の完全なる調和境である。
   釈尊はこの世の真相、宇宙間の全ての生命が歓喜に躍動するこの世の真の姿に
   触れられたのである。
   それは闘争を超えた「大愛」の世界であり、一切の生命の生かされる境界である。

   その体験以来清水師はすっかり明るくなり、それと共に今までとは全く別の世界が展開する
   ようになった。それまでは山の獣類に対する恐怖の念がとても強かったのであるが、
   その恐怖感はいつしか消えた。
   「愛の世界には絶対に恐怖は無い」と感じた。
   不思議にも、時を同じくして獣類が清水師に近づいて来るようになり、次第に馴れて行った。
   狐、狸、狼、猿、蛇等は飼い猫の如くに清水師の膝の上に乗って戯れるようになった。
   猿などは秋にもなれば栗や山柿の実などを頬張って持って来てくれた。
   まさにそれは調和に満ちた世界、自他一如の楽土の世界であった。
   「地上の人間世界にもこの楽土を具体化したい」と思った。
   「人間にもし仕事が有るなら、この愛の世界の具体化こそがそれであるはずだ」と思えた。

   山の生活で驚いたのは本能的直感力や視覚、聴覚、嗅覚等の著しい発達であった。
   毒草や薬草の前に立つ時、自然とそれが直感された。深夜の暗闇でも大抵の物は見分けが
   つくようになった。遠方の音が聞こえるようになった。臭いについても同様であった。
   「明鏡の如き心の持ち主」というのは人間の持つ本来の直感力や機能がそのままの姿で
   調和している人のことであろうと思われた。
   この世の真の姿を見るには動物的本能と直感が不可欠であり、「智慧の目」は人間の持つ
   本能的直感力によって開かれるものであろうと思われた。

   山の生活も2年近くを経て、自然の中に寂の境地を慕う心は強かったが人間思慕の心もまた
   強くなった。人間の真っ只中で一入の愛と寂びの世界を味得したい思いが日一日と強まった。
   人間界に下りることを決意し、飄然として新緑に美しい深山を後にした。

   山を下りて数年振りに家に帰ると、行方不明であった自分は既に死んだものとして仏壇には
   位牌が飾られていた。我が身の業とは言え、まことに親不孝な自分であった。

1917(大正 6)頃  29歳頃

   断食

   山を下りて人間界で目にするものは懐かしいものばかりであった。全てに親しみを感じて
   心は明るかった。しかしながらある日、偶然に蛇に飲まれる蛙を見て地上における生命の
   闘争の現実を再認識せざるを得なかった。
     人間もまた愛する生物の生命を食って生きているのである。
     自分は山の生活を通じて余りにもあらゆる生き物に対する愛を感じ過ぎていた。
     自分が深山から生きて人間界に戻れたのは、山の生き物達の愛が自分を抱擁して
     くれたが故であったのだ。
   食うことに罪悪を感じて食えなくなり、そのまま食を断たざるを得なかった。
   断食は21日間続いた。

   断食の終わった翌日のことであった、偶然に赤ん坊に乳を与えている母を見て鋭く感じる
   ことが有った。母は一向なる慈愛の元にあり、その腕に抱かれて無心に乳を飲む赤ん坊も
   また絶対安心の境にある。乳を飲むことによって生育して行く子、飲んでくれる子のいることに
   よって救われて行く母。この絶対境こそが一切衆の自然相であり、不一不二の境である。
   人は生まれながらにしてこの絶対愛に抱かれていたのだ。

1917(大正 6)頃  29歳頃

   貧民窟に住む

   「生死を自然に託して人間の中に流れて行こう」という思いが強くなった。
   足の向いた先は大阪の貧民窟であった。
   その貧民窟に入り、一年近くの間そこで生活した。

   2畳か3畳位の部屋が連なった百軒長屋、その各部屋に2組、3組の家族が雑居する。
   それは社会の資本主義経済機構の中の最も底辺に位置するどん底街であった。
   あらゆる種類の底辺労働者の生活がそこには有った。
   貧民窟の人たちのほとんどは経済社会から叩き落された落伍者であるが、落伍しつつも
   なお資本主義の経済内に留まって喘いでいるどん底の人たちである。
   この人たちの顔には人生に疲れ切った凄まじいまでに荒んだ相がいつも現れていた。

   百軒長屋での生活を通して現実の人間の姿を少なからず見直すことが出来た。

1918(大正 7)頃  30歳頃

   乞食(サンカ)の仲間に入り、約3年半をそこで生活。

   ある雨降りの翌日であった、泥々の街路に伏して恵みを乞う一人の乞食を見たのである。
   その姿を見るなり、打たれてしまった。
   行き交う人の投げる銅貨はその顔をも打つが、乞食は平然と座して頭を道につけていた。
     何という謙虚な姿であろうか・・・。
     地上の生活で一番素直に恵まれるままに生きて行く者は乞食であろう・・・。
   古来、行乞を生活の最高規範とされた古聖は多い。
   釈尊しかり、桃水禅師、良寛和尚、大燈国師しかり。
     総てを越えて乞食になろう・・・。
   それがせめて自分を真に生かす道だと信じられるのであった。
   自分は今一度沈潜し、どん底から自然に湧き出て来る真情の水を味わねばならない。
   不思議にも大きな力に導かれ、乞食の群れと共に行乞する生活へと入って行った。

   乞食たちは同じ落伍者ではあっても貧民窟の人たちとは全く異なる経済社会に生きていた。
   乞食には就職難も失業も無い。乞食をすれば必ず食えると信じているのである。
   乞食の人たちは天地自然と共に生きている一種の自由人、自然人であり、そこには
   一般人の社会には見ることの出来ない悠々たる相が有った。
   また、生活経済は団体本位であり、個人の財産は無い。300人程の無籍者によって構成
   される一つの不思議な小国家であった。

   当時の日本には全国の到る所に乞食が集団生活をしていたが、乞食という生活様式が
   社会機構の中で認められていた訳ではない。しかしながら政治的に乞食の救済方法が
   考えられていた訳でもなく、権力はただ乞食をその場から追放しようとするのみであった。
   また、乞食の人達ももちろん自分達の境遇に満足していた訳ではなく、普通の社会人として
   働いて生きて行く道を切望しつつもそれが果たせないまま、自分達の運命を諦観して
   いるのみであった。そこに「乞食の社会同化」ということが当然の方向として具体化されねば
   ならないとも思えるのであった。

   人間の生活は煎じ詰めれば乞食的か泥棒的かのいずれかであろう。
   乞食は一銭のお金にも感謝しお礼を述べるが、泥棒は万金を取り得てもお礼は言わない。
   まだまだ足らぬの不満のみが残るのである。足ることを知らない者の生活は皆その範囲から
   脱することが出来ないのである。
   近年の我等の生き方は次第に泥棒的になって来ているのではあるまいか。さればこそ、
   現代人は段々と感謝の念が乏しくなって来ているように思われる。

   行乞3年半は種々の意味において有り難いものであった。
   どん底世界から見ると人間社会の表裏、虚飾、虚栄の全てが良く分かった。
   街を着飾って澄まして歩く普通の人々の顔が、およそ馬鹿面に見えて仕方がなかった。
   また、自己に対する内観を更に深めることが出来たことはまことに幸いであった。
   傲慢なる自分であったが、下座によって法悦の生まれることをも味わえるようになった。
   大地の温かみと土下座の行の尊さを思うのであった。
   しかしながら安価に供養を受けて行く行乞生活よりも、一歩働いて生きて行く当たり前の生活
   への転向をより真実なるものとして看ることができるのであった。
   聖者としての「個の道」は別として、平凡人としての「全の道」は経済機構の真っ只中において
   発見されねばならない。

1921(大正10)頃  33歳頃

   警察による乞食狩りを機に、行乞仲間300数十人の中から約70人(後には結局合計
   328人になったようだ)の同胞を率いて、社会同化を目指して乞食を止めることを決意。
   初めは社会事業の一つとして公的補助を受け、「洗心館」と名付けた養老院の古小屋で
   集団生活をしながら社会同化の準備を進めた。
   しかし、社会事業としての政治的弊害から解放されるため、「洗心館」は約1年で閉じた。

1922(大正11)頃  34歳頃

   新たに独立独歩の「同朋園」を立ち上げ、改めて「真の労働者」になることを目指すことにした。
   「同朋園」の当面の目標は園の同人が社会の中でまず独立した生活者になることであった。
   まずは”拾い屋”としての労働生活を開始。

   この頃「同朋園」の同人が”裏切り者”としてかつての乞食仲間から夜襲を受ける事件が有った。

1923(大正12)頃  35歳頃

   1年間の”拾い屋”の訓練を経てから、同人達は大阪市の掃除夫及び衛生人夫となった。
   ようやく「働く者」として社会に出ることが出来たのである。
   同人の皆の顔はあふれるばかりの喜びに満ちていた。

1925(大正14)頃   37歳頃

   清水師は望まれて掃除巡視人になった。
   同人の内のある者は技術工として皮革工場等に雇用される者も出て来た。
   掃除夫等の生活も2年近くを経ていよいよ労働する者としての「平凡道」へと近づいて
   来たのであった。しかしながらその頃から同人の中にも経済社会の悪徳を反映して
   利己的色彩を帯びる者が出始めた。
   目指すべきは「単なる労働者」から「真人としての労働者」への道であろうと思われた。

   ここまでが「同朋園」の第一期。

   この頃に師は結婚したようである。かつての乞食同人首領(チャン)の娘を娶った。
   その後、4人の子供に恵まれた。

1926(昭和元年)頃   38歳頃

   同人の子供達の中にはようやく学校へ通う者も出て来た。

   同人の目指す「真人としての労働者」を実現するには、道徳と経済の一致せる産業経営が
   不可欠であり、産業は真の人間社会創造に寄与するものであらねばならない。
   幸いに、理解有る経営者の菓子工場に同人の多くが勤務させていただくことになった。
   しかし経営者の死を機に工場は他の悪徳同業者の手に渡り、同人全員は即座にクビを切られた。
   世の中では正しく生きようとする者は常にそうした苦難に遭遇しがちである。
   現実の世は、全人類が共に理解し合うところまで行かない限り、闘いも苦難も無くならない。

   今日の社会では刃物で人の首を切ることは許されないが、経済的に人の生命を奪う行為は
   公然と許されているのである。
   ただ自己の欲望を満たさんとする世では、人類は永遠に平和を望むことは出来ない。
   しかしながらまた、産業を無視しては人間の生活も成立しない。

   同朋園の方向転換を目指して宝塚の小濱に畑を借り、花栽培の農園を開始。
   土の生活の中にこそ真なる生き方が見い出せ得るはずだと考えた上での転換であった。
   「農は国家の基であり、農本精神は一切の産業の根本精神である」との思いであった。

   その後農園を大阪郊外の曾根に転居。
   ここまでが「同朋園」の第二期。

1928(昭和 3)頃  40歳頃

   「同朋園」第三期の始まり。

   大地に生きる農業生活を目指して本格的な農園事業に入った。

   富士の裾野に不毛の土地を買い、同人と共に開拓事業に打ち込む。
   またその後、大阪郊外曾根の農園を兵庫県武庫群山田村に転居。
   より可能性の有る農園を開くべく、急斜面の山林約一万坪の開墾を開始。
   約3年を掛けて2000坪の畑と3000坪の果樹園を作り上げた。

   「同朋園」の経営は農園部、果樹園部、養鶏部、販売部、出版印刷部の5部に分けて運営。
   乞食を止めて約6年を経て、同人の社会同化はようやく一応の軌道に乗るところまで来た。
   園の同人の生活は未だに粗末な共同生活である。
   清貧を旨とし、自給自足を原則としている。

1931(昭和 6)頃〜  43歳頃〜

   六甲山麓の開拓事業に従事。
   同人は”乞食開拓団”として満州国の開拓にも参加。チャン亡き後の師は”乞食大将”として
   満州国にも同行。

   この頃の清水師のお考えと世界観の一端は以下のようなものであった。

    * 自分は山に入り、乞食の生活をしてみて初めて、説明の出来ない「不立文字」の
       本体に触れることが出来た。
    * 人間の生きる営みは土を離れては成立しない。人間の生命の座は土の上に在る。
       土の声を通して自然の妙に触れ、土と一つになることによって初めて人生の真味をも
       味わうことが出来る。
    * 「同朋園」は土の精神を元とし、平凡人としての「全の道」を切り開くことを目指している。
    * 我々の目指す生活の標準は中庸である。
       誰でもが一緒に生きて行ける平凡な生活を「真人の道」の規範としたい。
    * 現在の同朋園の農業生活は種々の意味において正しく「苦悶」であるが、その苦悶を
       越えんとする精進こそが一切を遊戯三昧化するのである。
    * その生活を芸術とも宗教的法悦ともして味わって行きたい。また、それが可能となる
       客観的条件を具備せる国土を目指さねばならない。
    * その法悦の境地をそのままに表現したものが芸術としても高い境地であろう。
       土に真の親しみを感じる者にして初めて、真の芸術を語る資格もまた有ると思われる。
    * 自他の生命を傷付け合わずに、お互いを生かして行ける世界であらねばならない。
       そうした思想を根底として、今日の社会機構、経済機構を樹立し直さねばならない。
    * 「一切放下着」の思想を徹底させる時、万人の生き得る世界が必然的に生まれる。
       その理想に向かって努力精進して行くところに我々の生きる道がある。

   昭和9年に出版した「大地に生きる」は師の歩んだ半生をそのまま綴ったものであった。
   「道」を求めた真摯な生き様と特異な人生体験故に、世の心ある人たちの評判を得た。
   師の著書は当時の日本人の置かれていた精神状況と呼応したのであろう、師の元には各地
   より講演の依頼が来ることとなった。師は求めに応じて精力的に各地を旅した。
   戦争に向かって突き進んでいた暗い時代にあって、日本人はいかに生きるべきかの「道」を
   求めていたと言える。

1945(昭和20)頃、戦後〜  57歳頃〜

   北海道にて同人と共に開拓農耕に励む。

1955(昭和30)頃〜   67歳頃〜

   ”乞食開拓団”もかつて清水師と苦楽を共にした同人の大半は既に故人となり、世代交代して
   二世が主体となった。

   「人間は、どう生き、どう考えようと、やはり人間でしかない。もし偉大ということが人間に有ると
   すれば、それは最も平凡なものだ。平凡に徹すること、それが人生の、人間の最終章なのだ」
   師67歳の時の言葉である。

1958(昭和33)頃〜  70歳頃〜

   刑務所の教誨師。
   柔和で小柄、子供のような童心の人との評。

   戦後も混乱期から経済成長の時代へと進むに連れて日本人の精神状況も変化した。
   「道」を求める精神が衰退して行くに連れて、清水師の歩んだ真摯な道は次第に世間から
   忘れられて行くこととなった。

没年不詳




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◎ 出版、講演、寄稿



講演については、下に記した他にも多数の講演をされたはずであるが、いつどこでどの様な講演を
されたか記録が無いため、詳細は不明である。
師は執筆を好まなかったこともあり、出版は「大地に生きる」と「共に行くもの」の2冊だけである。
求めに応じて文章を寄稿したことは下記の他にも有ったと思われるが詳細は不明である。

なお、師があまり執筆を好まなかったことは師の仏教的世界観と深く関係している。
佛教には「不立文字」という言葉が有る。「真理は文字に表せない」という様な意味である。
師はその意味するところを実体験して来た人であったが、それ故に「白紙に優る筆記は無い」
ことを深く認識していたのである。
あえて書いた2冊の本ではあるが、師はそれぞれの前書きに次のように述べておられる。

  * 「筆記の塔を建てたことを恥ずかしくも思うが、この貧しい書を以って、一つには長き流転
     の中に懐かしき母と弟2人との3つの生命を奪ったせめてもの懺悔の印としたく、
     一つには大地に坐しながら自他共に生きる道の序説として、既知未知の友が生きる
     営みの上に少しでも役立てば一層嬉しく思う」

  * 「自分の如き筆に縁遠い者がこうした書物を作ることに気恥ずかしい感がないでもない」

ここにも清水精一師の有りのままの床しい人格の一面が拝されるのである。

「大地に生きる」は師がその自らの半生をありのままに綴った名著であるが、その本文は次のような
格調高い書き出しで始まっている。

   「人間はこうして地上に生まれて来ている。この私の根本的な已むに已まれぬ欲求は
    生きんとすることであって、地上はそうした者同士の集団である」





1920(大正 9)  32歳

   趣意書?「洗心館の設立と乞食生活の改善について」(救済研究)

1922(大正11)  34歳

   講演「乞食論」(社会事業研究所講議録・・・大日本仏教慈善会財団)
   ・・・「浮浪と乞食の民族学」批評社1997年6月礫川全次著にも収録

1934(昭和 9)  46歳

   出版「大地に生きる」(同朋園)
   小稿?「地に坐る者」(同朋園)

1935(昭和10)  47歳

   講演「禅と乞食(禅定の生活)」(「共に行くもの」に収録)

1936(昭和11)  48歳

   出版「共に行くもの」(同朋園)

1943(昭和18)  55歳

   再出版「大地に生きる」(三国書房)

1949(昭和24)  61歳

   再出版「共に行くもの」(いつくし文庫)

1955(昭和30)  67歳

   寄稿「山から落ちた乞食大将」(文芸春秋11月号)
   寄稿「乞食仏法」(大法輪2月号)
   寄稿「一燈園主西田天香の生活」(大法輪7月号)

1958(昭和33)2月25日  70歳

   講演「山岳宗教と仏教」(浅草寺 仏教文化講座 第三集)

1958(昭和33)  70歳

   寄稿「土をなめて知る煩悩即菩提の味」(大法輪6月号)

1959(昭和34)  71歳

   寄稿「乞食道 その1〜その10」(大法輪2月〜12月号連載)

1968(昭和43)  80歳

   寄稿「乞食道五十年」(大法輪11月号)



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参考;

  「昭和最大の怪物」と呼ばれた大正・昭和期の黒幕的政治家矢次一夫(1899-1983)は
  清水師を回顧して「僕は色んな人を歴訪して教えを乞うた中では、この人が一番偉いという
   印象を受けたことを今も忘れません」と語っている。






(文責 宝珠庵店主 佐藤小心)




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